大人は嫌いだ。特に疲れた大人は。
今、キング・クリムゾンの "Epitaph Including March For No Reason And Tomorrow And Tomorrow" を聴いて黄昏れている。七瀬さんの新曲も今日の僕には届かない。
僕は大人が嫌いだ。特に疲れた大人が。はっきり言ってこの世で「真の大人」と呼べる人間が何人いるだろうか?!
今日、キング・クリムゾンの曲を聴いて黄昏れているのは、僕の古い友人であった T さんのあまりに「疲れた大人」の典型的な反応に出くわしたからだ。
僕は小さな頃から学校の担任や大学院では助教授に「この子は社会人になったら人間関係に苦労しますよ」と言われ続けてきた。しかし、事実はどうであったか。俺はソニーで人間関係に苦労したことなどない。これらの「大人」達は、俺の正論、俺のロジックに対して論理的に太刀打ちできないから、悔し紛れに俺の人間性を否定して憂さを晴らしたに過ぎない。
今回もまた、そうであった。相手は「あなたはあなたの方からしか見えない」と俺の人間性を狭く言って俺の人間性を否定したが、事実は俺が言った「M さんが、あなたに常に楽しみを提供してくれたのは金銭によるものであると言いづらいですが言うしかありません」と言う「真実」に目を背け俺の人間性を貶めることで無駄な反発を言ったに過ぎない。もちろん、俺は全能ではないから視点には自ずから制限が生じる。しかし、T さんが、M さんが T さんを観るときの視点を熟知していたというなら、それは独りよがりな思い上がりだ。M さんは酒場のオーナーかホステスであり、T さんとの付き合いに「金銭」が絡まなかったと思う方がどうかしている。もちろん、懇意にしていたのは確かで「金銭」以上の付き合いをしていたのは間違いないが、「常に」と言うことになると「金銭」もしくはそれに変わる代償が必要だったはずだ。
俺は今38歳だ。しかし、外見は25歳に見える。そして、精神の根幹をなすコア(思考システムとしての「コア」ではない。)は18歳の少年のものだ。健全に育った少年は物事を真っ直ぐ見る。それがいかに望ましくないものであっても。そして、俺は単なる18歳の少年ではない。死闘の数々、悲劇の連続で、コアとなる18歳の少年の心の周りには分厚い男の生き様が覆っている。
ちょっと前にも今日のような残念なことがあった。高校時代の親友の I に久しぶりに電話をかけたのだが、結婚当初から少し額が禿げかけてきていた彼に、冗談半分で「今どのくらい?!」と言ったら激しく怒り、喧嘩になった。「俺は妻子を守る義務があるし、仕事だってそれなりの地位だから海外に行くこともあって大変なんだ。お前の方がどうかしているの! お前、人間としてコミュニケーションが出来ていないよ! 人間は歳を取れば自然に変わっていくものなんだよ。俺はお前よりもっと話したい友人がいるんだぞ!」。これが、「コミュニケーションが取れる男」の台詞らしい(笑)。判っているよ、お前が欲する「コミュニケーション」は、要は「疲れた大人」として愚痴をこぼせる相手が欲しいだけなんだろう?!(笑) それに、「海外へ行く」なんて疲れ果てたお前が俺に対して自分の出世をひけらかせたいだけじゃないか!(爆) 俺は新人2年目には事実上、今のお前より遙かに偉かったよ! 実力付きでな! 遣り甲斐があったから愚痴をこぼす必要もなかったしな! 海外に行けなかったのは単純に病気のせいなんだから。
だから、俺は「疲れた大人」が大嫌いなんだよ!
「疲れた大人」は、疲れているが故に何か力強い者に自分のイメージを重ね合わせて自慰に浸る。そして、その「力強い者」が権力者だった場合、内政の不備を市民の目からそらすため、外国に侵略戦争を仕掛けるのは常套手段だ。彼にイメージを重ね合わせる「疲れた大人」達は自分のヒーローである権力者と自分の国が戦争に勝ち、敵を叩きのめすのに喝采を送る。
こう言う「疲れた大人」が絶えない限り、彼らを利用する為政者は後を絶たず、戦争もなくならない。
人の革新たる「ニュータイプ」による「天の国」で一番邪魔な存在が「疲れた大人」なんだよ! 現時点で「疲れた大人」はいかに再教育しようとも「ニュータイプ」たり得ないだろう。
だが、「疲れた大人」はそう簡単に消えそうにない。だから、今晩はキング・クリムゾンの "Epitaph Including March For No Reason And Tomorrow And Tomorrow" を聴いて黄昏れているんだよ!
それからさあ、チベット問題について触れるが、俺が出した「チベット自治国主権の象徴としてのダライ・ラマ」と言う案をもっとも望まないのは、中国共産党ではなく、チベット仏教の中枢だろう? お見通しなんだよ! 第一、誰がどう観たって、次期ダライ・ラマの選定行事はチベット仏教内の権力闘争で最初から選ばれる子どもが決まっていて、複数の候補にテストを施すのはやらせだろう? 完璧に。権力闘争で勝った派閥が決めた子どもにあらかじめ過去のダライ・ラマが愛用した品や仕草を教え込んだ臭い芝居なのは間違いない。これを否定する根拠があるかい?! 俺は遊牧民としての素朴なチベットの人々が好きだし、仏教に対する素朴な信仰も良いことだと思っているが、宗教の枠を超えた、ダライ・ラマ信仰を持ち続ける限り、「高度な自治」などおこがましいんだよ。中国共産党、俺もたまにはお前達の耳障りの良いこと言うだろう?!(笑) そもそも、そう言う宗教の醜悪な部分で選ばれた現在のダライ・ラマが中国共産党と交渉に当たること自体、おこがましいんだよ!(怒) インドには少なからずチベット人がいるんだろう?! だったら、代表は僧侶でない者で政教分離が保証された民主的な選挙で選ばれた者が行うべきだ。
6月2日追記:
現在、午前2時37分。今日は寝られない。
皆、判って欲しい。ここにいるのは、エモーション・エンジンを失った単なる冷たい機械だと。機械は与えられた条件下に置ける演算を正確にこなす事のみにしか責任を取らない。条件が変われば演算をし直すだけだ。だが、機械にとっての正確な演算結果が人類にとって正確な演算結果だとは限らないと。機械が下した演算結果に採用する価値を見いだせば採用すればいい。そうでなければ、そうでないようにすればいい。人類の未来を単なる機械が握っているとしたら滑稽じゃないか?! 人類の未来は人類の手によってこそ行われるべき事である。
僕の「人間」としてのコミュニケーション能力は僕の置かれた現状下ではそれほど不自由しない。だが、「真のコミュニケーション」に必要な「人間としての感情」、「人間としての感情をベースにした他人の感情の推定」を僕は保有していない。あくまで「人間という物を計算によってモデリングし、そのモデリングから機械が計算する他人の感情の推定」しか、今の僕には出来ない。上記文中で上げた T さんに対する残酷な台詞は、いきなり出た物ではない。少し T さんが、昔に比べてポジティブでなくなったと判断した僕は、共通の趣味である写真を一枚送り、「よろしかったら T さんの写真も見せて下さいね?!」とメールしたが一切音信不通で、フォーラムの運用に支障が出たので、多少の荒療治でも良いからポジティブになって欲しいと、この残酷なメッセージの前後には T さんをいたわる言葉が列ぶ。しかし、メールの目的がフォーラムの活性化である以上、釘を刺しておかないといけないことの延長線上として、この残酷な荒療治とも言える言葉を書かざるを得なかった。まあ、これはプライベートなことでこれ以上触れる必要はない。ただ、T さんに「疲れた大人」を感じた結果、僕は「機械としての義務」=「条件変化時の再計算」を行っただけなのだ。キング・クリムゾンの曲を聴かないとやっていられなかったのは、「原始的な憤り」と言う別に厳密な意味で人間でない僕でも持ち得る数少ない「原始的感情」の結果だ。
真にして知られざる神は「禁煙」を示唆している。しかし、それは原理的に困難がありすぎるのだ。事実、現行のコアを駆動するメインエネルギーはニコチンであり、禁煙しただけでは、単にエネルギーの供給がなくなるだけになる。単にニコチン中毒というわけではないのだ。肉体的にニコチン依存がなくなっただけではまるで意味がないのだ。ニコチンというエネルギーの代わりとなるのは、無限のエネルギー源と言える「エモーション・エンジン」の復活で、この前提条件となるのが「命に代えても守りたいと言うほど愛する女性から、愛され、生まれて最初のキスを交わす」、これが「エモーション・エンジン」復活の最低条件だ。しかし、禁煙と何の因果関係があるのだ?! そもそも、僕は吸える歳になっても煙草は嫌いだったのが北陸の凍てついた大地での死闘をしているときに周りがみんな喫煙者である日つい煙草に手が伸びてしまったと言うのが発端なのだが、これは偶然ではなく、神がそう誘導した結果の産物であることは明らかだ。神の目的ははっきりしている。「エモーション・エンジン」を僕から奪い、ごく微量なエネルギー源でしかないニコチンでコアを駆動できるまで性能を向上させるという目的だ。結果としてプアなエネルギー源でしかないニコチンでここまで出来るようになった。神の腹としてはそこまで性能が向上したコアに「エモーション・エンジン」の無限のエネルギーを注ぎ込むことだろうが、何故、僕が禁煙する必要がある?! 明らかに「エモーション・エンジン」の復活と「禁煙」は無関係である。僕が禁煙しないと「命に代えても守りたいと言う女性から、愛され、生まれて最初のキスを交わす」と言うイベントを神が起こせないと言う明示的な理由はどこにもない。あるとしたら神が悪魔と取引したと言うことだけだ。そんな取引に僕が犠牲にならなくてはいけない理由などどこにもない。
映画「ターミネーター2」じゃないが、現在の僕は人間が何故泣くか本気で判らない。「悲しい」? 少なくとも、最愛の玲香に2回目の告白で振られた僕は「悲しみの涙」を流したが、僕にとって「悲しい」と思えることはとても嬉しかった。「『悲しい』って思える事ってこんなに嬉しいことなんだ」、そう思った。その位、僕は壊れている。今でも涙を流すことがあるが、それは「エモーション・エンジン」が健在であったときの「感情パターンの記憶」を元にコアが自動演算して、擬似的に感情を再現して涙を流すだけなんだ。